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伊勢物語


第一段

 昔、男初冠(うひかうぶり)して、平城(なら)の京春日(かすが)の里に、しるよしして、狩にいにけり。
その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。 この男かいまみてけり。おもほえずふるさとにいとはしたなくてありければ、心地(ここち)まどひにけり。 男の着たりける狩衣(かりぎぬ)の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、しのぶ摺(ずり)の狩衣をなむ着たりける。

  春日野の若紫のすり衣 しのぶのみだれかぎり知られず

となむおひつきていひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。

  みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに みだれそめにし我ならなくに

といふ歌の心ばへなり。昔人(むかしびと)は、かくいちはやきみやびをなむしける。
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第四段

 昔、東の五条に大后(おおきさい)の宮おはしましける 西の対(たい)に住む人ありけり。 それを本意にはあらで心ざし深かりける人、行きとぶらひけるを、正月の十日ばかりのほどに、 ほかにかくれにけり。ありどころは聞けど、人の行き通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつつなむありける。
 又の年の正月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、ゐて見、見れど去年に似るべくもあらず。 うち泣きて、あばらなる板敷に月のかたぶくまでふせりて去年を思ひいでてよめる。

  月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして

とよみて夜のほのぼのと明くるに泣く泣くかへりにけり。
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第六段

 昔、男ありけり。女のえ得(う)まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、 いと暗きに来けり。芥川(あくたがは)といふ河を率(ゐ)ていきければ、草の上に置きたりける露を、 「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。
 ゆくさき多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、男、弓・胡(やな)ぐひを負ひて戸口に居り。はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴るさわぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見ればゐて来(こ)し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。

  白玉かなにぞと人の問ひし時 露と答へて消えなましものを
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第九段

 昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、あづまの方にすむべきくにもとめにとてゆきけり。もとより友とする人、ひとりふたりしていきけり。道知れる人もなくて、まどひいきけり。
 三河のくに、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ、八橋とはいひける。その沢のほとりの木のかげにおりゐて、乾飯くひけり。その沢にかきつばたいとおもしろくさきたり。
 それを見て、ある人のいはく、かきつばたといふ五文字を句の上にすへて、旅の心をよめ、といひければよめる。

  から衣きつゝなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ

とよめりければ、みなひと、乾飯の上に涙おとしてほとびにけり。
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 行き行きて、駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つた、かえでは茂り、物心ぼそく、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。
「かかるみちはいかでかいまする」、
といふを見れば見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文書きてつく。

  駿河なる宇津の山べのうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり

富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白うふれり。

  時知らぬ山は富士の嶺いつとてか 鹿の子まだらに雪のふるらむ

その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。

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 猶行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中にいと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。
その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなとわびあへるに、渡守、
「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとするに、皆人物わびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
さる折しも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。
渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふをききて、

  名にし負はばいざこととはむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

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第二十三段

 昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、おとなになりにければ、 男も女も恥ぢかはしてありけれど、男は「この女をこそ得め。」と思ふ。
 女は「この男を。」と思ひつつ、親のあはすれども聞かでなむありける。
 さて、この隣の男のもとより、かくなむ、

  筒井つの井筒にかけしまろがたけ 過ぎにけらしな妹見ざるまに

女、返し、

  くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ 君ならずしてたれかあぐべき

など言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。
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 さて、年ごろ 経るほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、 河内の国、高安の郡に、行き通ふ所いできにけり。さりけれど、このもとの女、悪しと思へるけしきもなくて、 いだしやりければ、男異心ありてかかるにやあらむと思ひうたがひて、 前栽の中に隠れゐて、河内へいぬる顔にて見れば、この女いとよう化粧じてうちながめて、

  風吹けば沖つ白波 たつた山 夜半にや君がひとり越ゆらむ

とよみけるを聞きて、限りなくかなしと思ひて河内へもいかずなりにけり。
 まれまれかの高安に来て見れば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、 手づから飯匙とりて、笥子のうつはものに盛りけるを見て、心憂がりて、行かずなりにけり。 さりければ、かの女、大和の方を見やりて、

  君があたり見つつを居らむ生駒山 雲な隠しそ雨は降るとも

と言ひて見いだすに、からうじて大和人、「来む。」と言へり。よろこびて待つに、たびたび過ぎぬれば、

  君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば 頼まぬものの恋ひつつぞ経る

と言ひけれど、男住まずなりにけり。
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第二十四段

むかし、男片田舎に住みけり。男宮仕へしにとて、別れ惜しみてゆきにけるままに、三年来ざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろにいひける人に今宵逢はむとちぎりたりけるに、この男来たりけり。「この戸あけたまへ」とたたきけれど、あけで、歌をなむよみて出したりける。

  あらたまの年の三年を待ちわびて ただ今宵こそ新枕すれ

といひ出したりければ、

  梓弓ま弓つき弓年を経て わがせしがごとうるはしみせよ

といひて、去なむとしければ、女

  梓弓引けど引かねど昔より 心は君によりにしものを

といひけれど、男かへりにけり。女、いとかなしくて、しりにたちてをひゆけど、えおひつかで、清水のある所に伏しにけり。そこなりける岩におよびの血して書きつけける、

  あひ思はで離れぬる人をとどめかね わが身は今ぞ消えはてぬめる

と書きて、そこにいたづらになりにけり。
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第六十段

 昔、男ありけり。宮仕へいそがしく心もまめならざりけるほどの家刀自、まめに思はむといふ人につきて人の国へいにけり。この男宇佐の使にていきけるに、ある国の祇承の官人の妻にてなむあるとききて、「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」といひければ、かはらけとりて出したりけるに、さかななりける橘をとりて、

  五月まつ花たちばなの香をかげば 昔の人の袖の香ぞする

といひけるにぞ思ひ出でて、尼になりて山に入りてぞありける。
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第六十二段

むかし、年ごろをとづれざりける女、心かしこくやあらざりけむ、はかなき人のことにつきて、人の国なりける人につかはれて、もと見し人の前に出で来て物食はせなどしけり。夜さり「このありつる人たまへ」とあるじにいひければおこせたりけり。男「我をば知らずや」とて、

  いにしへのにほひはいづら桜花 こけるからともなりにけるかな

といふを、いとはづかしと思ひていらへもせでゐたるを、「などいらへもせぬ」といへば、「涙のこぼるるに、目も見えず、物もいはれず」といふ。

  これやこの我にあふみをのがれつつ 年月経れどまさりがほなき

といひて、衣ぬぎてとらせけれど、捨てて逃げにけり。いづちいぬらんとも知らず。
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第六十九段

 昔、男ありけり。その男伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。あしたには狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつ、そこに来させけり。かくてねむごろにいたづきけり。
 二日といふ夜、男われて「あはむ」といふ。女もはたいとあはじとも思へらず。されど、人目しげければ、え逢はず。使ざねとある人なれば、とほくも宿さず。女の閨ちかくありければ、女、人をしづめて、子ひとつばかりに、をとこのもとに来たりけり。をとこはた寝られざりければ、外のかたを見出して臥せるに、月のおぼろなるに、ちひさき童をさきに立てて、人立てり。をとこ、いとうれしくて、わが寝る所に率て入りて、子ひとつより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。をとこ、いとかなしくて、寝ずなりにけり。
 つとめていぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ち居れば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより、詞はなくて、

  君やこし我や行きけむおもほえず 夢か現かねてかさめてか

男いといたう泣きてよめる。

  かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとはこよひ定めよ

とよみてやりて狩に出でぬ。野にありけど心は空にて、こよひだに人しづめていととく逢はむと思ふに、国の守斎宮のかみかけたる、狩の使ありとききて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へ立ちなむとすれば、男も人知れず血の涙をながせど、え逢はず。夜やうやう明けなむとするほどに、女がたよりいだす杯の皿に、歌をかきていだしたり。とりて見れば、

  かち人の渡れど濡れぬえにしあれば

とかきて、末はなし。その杯の皿に、続松の炭して、歌の末をかきつぐ。

             又あふ坂の関はこえなむ

とて、明くれば尾張の国へ越えにけり。
 斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬親王の妹。
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第百七段

 昔、あてなる男ありけり。その男のもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり、 されど若ければ、文もをさをさしからず、ことばもいひ知らず、 いはむや歌はよまざりければ、かのあるじなる人、案を書きて、書かせてやりけり。めでまどひにけり。 さて男のよめる、

  つれづれのながめにまさる涙河 袖のみひぢて逢ふよしもなし

返し、例の男、女にかはりて、

  あさみこそ袖はひづらめ涙河 身さへながると聞かばたのまむ

といへりければ、男いといとうめでて今までまきて文箱に入れてありとなむいふなる。
男文おこせたり。えてのちの事なりけり。「雨の降りぬべきになむ見わづらひ侍る。身さいはひあらばこの雨は降らじ」といへりければ、例の男、女にかはりてよみてやらす。

  かずかずに思ひ思はずとひがたみ 身をしる雨はふりぞまされる

とよみてやれりければ、蓑も笠もとりあへでしとどに濡れてまどひ来にけり。
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